2003年
ミシェル・フーコーにおける「アルシーヴ」の隘路.pdf
初出:「ミシェル・フーコーにおけるアルシーヴという隘路――考古学的手法における規則性・法則・権力」『ソシオロゴス』27: 192-206.
晩期フーコーによる実践分析の要点.pdf
初出:「晩期フーコーにおける〈実践〉分析の要点」『現代社会理論研究』13: 11-22.
2005年
後期フーコーにおける権力現象の多層性について.pdf
初出:「後期フーコーにおける権力現象の多層性について――知と権力との多様な関係性に注目して」『ソシオロジ』152: 19-35.
ミシェル・フーコーにおける言説の諸性質について.pdf
初出:「ミシェル・フーコーにおける言説の諸性質について――〈言説分析〉から〈言説〉の諸分析へ」『年報社会学論集』18: 264-275.
盛り場の知・学校の知――安原顕と現代思想の七〇年代
初出:「盛り場の知・学校の知――安原顕と現代思想の七〇年代」北田暁大・野上元・水溜真由美編『カルチュラル・ポリティクス1960 /1970』せりか書房,135-154.
測定実践の合理性の水準へ――『フーコーの穴』書評
初出:「測定実践の合理性の水準へ――『フーコーの穴』書評」『書評ソシオロゴス』1: 1-16.
2006年
ピエール・ブルデューにおけるコミュニケーションの不可能性の問題.pdf
初出:「ピエール・ブルデューにおけるコミュニケーションの不可能性の問題――問題意識の再構成と正統性論の役割についての検討」『社会学史研究』28: 141-157.
敷居
4カ月程度のご無沙汰なのだが、実はその間にも、何度か記事を書こうと試みたことがあった。ただ、書いているうちに、わざわざ「エントリでござい」と構えるほどの内容ではないような気がして、むなしくなって、消していたのである。
そしてまた、昔のエントリなんかを読むと、社会についての意見を述べるぜ、という鼻息が荒い気がして恥ずかしくなる自分もいる。
もっと息するようにくだらないことどもを書いていけばよいのかな、とは思うのだが。――例えば、部屋のコバエがうざくて死にそうとか。
今日はこんなもんで許してください。
やらなければいかん仕事があるのだが
やる気にならんので、なんか関係ないことを書いてみる。
最近、「多感な」というキーワードに敏感だ。自分の嗜癖の多くを説明してくれそうな言葉である。
たとえば、海外ミステリが好きだとか、テレビゲームを未だにやってるとか、サザンオールスターズが好きだとか。これらは、人生の「多感な」時期にガツンと出会ってしまった結果なんだと思っている。
そういう出会いというか熱狂は年々薄くなっていく。「多感な」日々は遠のいていくということか。最後に熱狂したのは、椎名林檎だったはずだ。あれはちょうど就職したての頃で、そういう新しい環境がもたらした残り火だったのかもしれない。
生涯「多感」でいられる人はいるのだろうか。そうでありたいものだが、私の目の前には茫漠とした原っぱが長々と続いているように思える。
耳にするとゲンナリするコトバ
私自身よく言葉を誤用していろいろ恥ずかしい思いをしてきたのだが、そんな私が自らを棚に上げ、耳にしてゲンナリする言葉がある。それは、
「処女作」
である。
え、なんで女性が処女かどうかに例える必要があるの? 割と一目置いていた人なんかが、普通に口にしたりすると、この人もか〜、とちょっとガッカリしてしまう。
調べてみると、これ、maiden workという英語の直訳らしいんだけれども、幾つか英英辞書を調べてみたが存在しない(初航海、初飛行、外交官による初演説という用語は出てくる)。googleで検索しても、日本のサイトばかりひっかかるし。
以下は推測なんだが、日本オリジナルの展開として、処女地とか処女彗星とか、用法を融通無碍に拡大してきたところがあったのではないか。元々は、古い英語が特別のイベントのために使っていた言葉に過ぎなかったのが、便利だからと用いられていったのではないか。
その中でも「処女作」という言葉には、何かしら、特別な面白さがあったのかもしれない。私には分からないが。