世間を語る

 フィールドを持たない研究者が一番陥りやすい罠というのが、世間を社会のように語ってしまうことではないかと思う。要するに、新聞を読んで、ネットして、専門書を読むと言った生活の中では、結局、世間のことを、社会そのものと誤解してしまいがちだということである。このことを、恥ずかしながら、前回のエントリを書きながら痛感させられた。書きながら、その分析可能性が極めて限られていると思わざるを得なかった。
 世間はさして複雑にはできていない。いや、多少は複雑なものであるかもしれないが、二百年弱の歴史を持ち、何十万人もの人間が関わってきた社会学がいまだ分析し得ないほどに複雑なものとも思えない。傲岸不遜な言い方であるかもしれないが、新しい知見が、世間から生まれてくるとはちょっと思えない。
 別に世間をなめているわけではない。むしろ、脅えているのである。世間の生み出す言説は、容易に、社会学者の洞察と同程度の水準に達する。社会学者でござーい、と呼ばれて出てきたのはいいが、そこから生まれる言葉などはその数時間前に誰かがブログで言っていたりする。そういうことまで含めて、世間が(専門家様の分析を要するほどに)複雑だとは思えないと言ってみたのである。