理解について追記

 数日前に「理解」というエントリを立てたが、その折に、以下のことを書いていた。

ところで、こうした事件において、真っ先に我々が試そうとするのは、それを理解することであろう。理解するとは複雑な作業である。先ず、それのライフコースを再構成するべく、過去の人脈が掘りつくされる。それから、それの趣味・嗜好に属するコンテンツが漁られる。ちょっとした奇行、ちょっとした妄言、ちょっとした嗜好、そうした出来事がかき集められる。そして、心理学者でも社会学者でもなんでもよろしいが、そうして集められたデータから「それ」を立ち上げることを厭わない連中も腐るほどいる。

 ここで、考察不足だったのが、心理学者とその他の学者の相違だった。奇行から犯罪者像を立ち上げるのが心理学者なら、犯罪者像を犯罪予備集団へと立ち上げるのが、社会学者その他の連中なのである。
 そして、ある凶行後に社会が求める解釈として、第一にくるのが、犯罪者像の再構成なら、第二にくるのが、犯罪予備集団の再構成なのである。あなたの身の回りにこんな人は居ませんか、子どもを犯罪者にしないために、などといった呼びかけに応じて、社会学者その他の思想家が登場して集団を構築してみせる。
 皮肉なことだが、ある社会集団の苦悩を代弁してみせたという善意で、本人は満足げだ。だが、その実、連中が呼び出された理由も、そして呼び出された結果も、ある種の集団を社会的にマークし、凶行(可能性)とある種の集団を結びつけるばかりなのである。
 思想が常にこんな役割を果たしてきたと言うつもりはないが、90年以降の思想は、どこかで、この呪われた役割との関わりを持っているように思う。たとい、それをきっかけとして高度な考察を展開して見せたとしても、その基礎にはマーキングがある。マーキングがあったから、彼ら・彼女らはものをいう場所を与えられていると言ってもよいかもしれない。
 80年代の思想は確かに「ファッション」だったかもしれない。しかし、90年代の思想と比べれば、ファッションという形であれ、社会の求める解釈の役割からは自律していたといってもよい。どちらがよりマシかを一概に決めることは出来ないと思う。