さよなら、原田さん。

 原田勝彦さんが交通事故でお亡くなりになったと聞いて、脳が麻痺したようになって、しばらく何も考えられなくなってしまった。

 昨晩、いつものように、いくつかのゲーム関連のブログをみていたところ、あるところで「大事な人を失った」とあり、別のところで「この暑いさなかにまた一人」とあって、イヤな予感がした。更にその方のブログに「文章は面白いのに、悲しい目をしてペシミスティックだった」とあって、予感が確信に変わった。私のイメージでは、原田さんとはまさにそういう人だったからだ。

 この日記の読者の大半は、原田さんを知らないだろう。彼は十年弱の間、テレビゲーム雑誌専門のライターさんだった。私が知っている限りでは、ゲームサイド(旧ユーゲー、旧ナイスゲームズ/ユーズドゲームズ)、ゲーム批評(休刊)、コンティニュー(今はゲーム雑誌ではない)で活躍していた。どの雑誌も、残念ながら、それ程多くの部数を持っているわけではない、というか、ゲーム一筋でやっているのは今ではゲームサイドだけになってしまっている。むろん、ファミ通など大部数を誇る雑誌もあるが、テレビゲームの歴史と向き合っている雑誌となると、その読者層の薄さを痛感せざるを得ない。

 原田さんはこの小さな世界で、主観的には間違いなく、客観的にもほぼ正しく、最も優れたライターだったと思う。だが、ゲーム雑誌界の悲しさ、その偉大さはごく限られた人々の間で知られ賞賛されていたに過ぎなかった。だから私は思う。もし、彼が、音楽ライターだったらどうだったろう。きっと、この訃報に接しての大きなショックをみんなと共有できたろうに。それぐらい、才能がある人だったのだ。

 偶然にも、今月のゲームサイドの特集もメガドラだったが、私が原田さんの文章ではじめて感銘を受けたのも、たしか、ユーズドゲームズ時代のメガドラ特集で、魂斗羅ザ・ハードコアの記事だったかと思う。やたらとテンションが高かった。「返事はサー、イエッサーしか認めん!」とか、(登場キャラを指して)「どいつもこいつも著しく精神年齢が低い」とか、印象的なフレーズは今でも心に残っている。

 奇しくも(なぜ、偶然とか、奇しくも、のフレーズがこんなに続くのだろう)、この7月にちょっと言及した彼のディープ・シューティング特集では、ひとりで数十ページを費やして己が偏愛するシューティングゲームを延々書き続けるという偉業を達成してもいる。なんとこの号、前半のナムコ特集でも何本か記事を書いているから、原田勝彦特集号のようになってしまっている。そのわりに、アンケート結果も結構良かったというからその凄さが理解できようというものだ。

 このことからも分かるが、彼の記事には、その世界のド素人である私のような読者にも何故か愉しく読めてしまうという性質があった。これは彼の文章が、愉快な煽り文句で最大限人を喰いつけつつも、ギリギリ最小限のセンテンスでそのゲームの本質をサラッと述べるという、極めてテクニカルなものであったことに由来する。底抜けに熱い身振りで人を呼び寄せつつ、その恐ろしく冷めた眼はレントゲンのようにゲームの骨格しか見ていないのだ。

 こんな密度の濃い文章を大量生産していたためだろうか。燃え尽きたのか、数年して筆を折ってしまう。ある日、休載の告知があちらこちらで載るようになって、どうしたんだろう、と物足りない気持ちになった。だが、当時彼が開いていたウェブサイト(現在は閉鎖)では、書けないことの苦しみ、体調の悪さ、精神面での不安定さが連日記されていたことを後になって知った。

 だから、一年ほどのうちに、ゲームサイドの編集に戻ったことを知ったときには本当に歓喜した。三号で辞めてしまうのだけれども、その後今日に至るまで、彼の連載と、ゲーム帝国風味のお便りコーナーは途切れることなく続いた。どれも私がゲームサイドで最初に読む頁だった。

 今考えてもっとも印象的なのは、レースゲーム「バーンアウト」の本質が、意外にも、シューティングゲームである「斑鳩」の本質と同じものであることを誰よりも早く見抜いていたことである。我々は、ずっとずっと後になって、開発者インタビューで彼の慧眼を知ることになる。あるいはまた、トレジャーの社長が、インタビュー中で彼の「バンガイオー」紹介記事をべた褒めしていたことも思い出す。恐らくは、彼は、その魔術的な文章によって、読者を最大限楽しませると同時に、密かな暗号によって、開発者たちとも通信していたのだろう。言葉は悪いが、まことに「偉大な二枚舌」と言う他ない。

 さよなら、原田さん。現世の苦しみとは無縁な地にてゲームを楽しまれますように。