退化
ファウンデーション ―銀河帝国興亡史〈1〉 (ハヤカワ文庫SF)
- 作者: アイザック・アシモフ,岡部宏之
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1984/04
- メディア: 文庫
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この十年ほど、退化という概念のことを忘れて生きていたのだな、としみじみ感じた。SFの世界では、例えばウェルズの『タイムマシン』など、割とよくあるテーマなのだろうが、読み慣れていない私のような者にとっては、久しぶりにぶつかった考え方だった。
我々の社会において、退化の可能性は存在しないのだろうか。
シュペングラーの『西洋の没落』であるとか、アドルノ・ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』なんかは、立場は異なれど、戦間期・戦中に特有の退化についての信念があったことを伺わせるのだが、その後は、退化を論じる人にはあまり出会わない。進化は今なお根強く論じられているのだが。
高校の頃、見た目はただの爺さんだが、硬軟自在のテクニックで生徒を操っていた老練の古典の先生がいて、その人が文学史の講義で、平安期、鎌倉期の文学に触れた後、室町期の文学について、「一時期はあれほどの水準を誇った文学が、御伽草子の水準にまで落ちちゃった。文化ていうのは努力しないとすぐ退化するんだねえ」と言っていたことを思い出す。冷静に考えると、単に読み手となり得る集団が農民らの水準にまで拡がっただけのことではないか、と思うのだが、当時は、これが退化か、と感心したものだった。結局、ウソを教えられたことになるのだが、こうして今もしっかりと脳に刻まれていることを思うと、やはりあの老人はしたたかだったのだろう。
シュペングラーにしてもアドルノにしても目撃したのは同じ現象で、それまで文化を享受する余裕のなかった層がはじめてある程度のレベルの文化的生産物を手にした、という現象だったのだろう。それが退化に見えてしまったわけだ。では、退化はやはり必要のない概念なのだろうか。
私などは、ドン・キホーテを見るたびに、「我々は退化した」と感じてしまうのだが、恐らく、この退化の感覚を論証することが出来ないことぐらいは分かる。所詮、価値観なり所属集団の問題として片付け得てしまう現象なのだろう。それでは、退化の概念は要らないのか、というと、そう断言できる自信もないのである。