再生産論について分からぬこと

 まあ、基本的には、佐藤俊樹先生が40代のホワイトカラーに注目されたときや、盛山和夫先生が、昔はホワイトカラーよりも自営業職を選択する方が常識的な判断だった、などの議論をされたときに、問題となっていたことなので、これから述べることは取り立てて新しいことではない。

 再生産というのは、人生のどの段階で再生産であると言えるのか、ということである。

 学校の成績というのが、文化的再生産論者の主張だったと思うが、片岡栄美先生は、日本では、女性の配偶者選択において再生産が顕著であると主張されていた。多くの学生たちにとっては、大企業か中央官庁に勤めることが目標であろうから、企業の従業員規模が再生産の決め手なのかとも思えるが、佐藤俊樹先生がおっしゃるように、40代の時点でホワイトカラー上層についていることが再生産の指標なのかもしれない。

 この問題に付随して、次の問題が生じてくる。

 ブルデューの文化的再生産論においては、少なくとも70年代の主張では、教師の評価するハビトゥスと学生の出自のハビトゥスとのマッチングが問題だった。つまり、教師と生徒間のコードの一致と不一致とが再生産を決めるということである。清水亮先生が指摘されていたように、この場合、ハビトゥスというよりもむしろ、成績でよい点をとれる要領のよさとか論理的な思考能力の方が重要であることも考えられるだろう。この場合、問題とすべきペアは、試験の前提とする能力と学生の能力とのペアということになるだろう。

 しかし、再生産の段階が異なるのであれば、コードの内容とコードの一致を問題とすべきペアとは更に異なるものになるだろう。

 具体的には、女性の配偶者選択が問題ならば、女性とその配偶者のコードが問題となろうし、就職の段階が問題なのであれば、本田先生が指摘しているように、大企業の面接官と学生の間のコードが問題となろう。40代時点での地位が問題であれば、上司(というか企業文化)と部下との間のコードの一致と不一致が問題となるだろう。