青色本

 

ウィトゲンシュタイン全集 6 青色本・茶色本

ウィトゲンシュタイン全集 6 青色本・茶色本

 暇つぶしに読んでいるが、単なる記号がどうしたら意味を持つのか、とか、議論の仕方がフーコーの言表の議論とよく似ているなと思った*1フーコーの問いの立て方は、単なる文字列がどうしたら言表になるのか、だった。

 ところで今のところ、彼が日常言語を肯定したいのか否定したいのかがよく分からん。敵は学的言説なのか日常言語なのか。

*1:フーコーがけっこう日常言語学派を意識していたことは知られた話であるが

 参加している人間

 それから論文関連で、

 ハーバマスを読んでいるけれども、彼が、対象認識のモデルに、複数人間での了解のモデルを対置させているのが興味深いと思った。この場合のメリットは、彼曰く、了解の過程に参加する人間の視点から、認識過程を再構成することができる点にあるとか。
 議論全体の是非はともあれ、了解過程に参加している人間がすることというのが対象の仮借なき認識というやつとどう違ってくるのか、という問いは、案外ブルデューの『実践感覚』などとも繋がってくるのではないかと思う。
 ただ、参加者の視点をとると「二人称」の視点から認識行為を捉え返すことができるという主張は、なんと言うか、文字づらの解決に過ぎないのではないか、という疑惑が残る。二人称による分析とは?