「風の息遣い」再論

 毎日インタラクティヴの社説子が、風で横転した列車の運転手が「風の息遣い」を感じなかったのかと批判的に述べた出来事は、多くの憤激を呼んだ。その憤激は、いわゆるプチ・ナショナリストと呼ばれる人々に多く見られたのであった。
 プチ・ナショナリストの見ている構図は非常によく分かる。ブルーカラーの運転手をホワイトカラーのマスコミが批判する。その批判の手つきがたまたま拙劣だったために、この構図が露呈してしまったわけだ。
 高みから話しかける人々のその「高さ」が意識される*1。その特権性が不愉快で仕方がない。転職なんて考えようともしないであろう正義を気取る連中は、新聞拡販員たちの違法すれすれの低賃金労働の上にどんと居座っている。これが、プチ・ナショナリストの見ている世界であって、この種の世界観は、実は、世界史においてどこでも存在してきた。
 問題は、この世界観がどういう思想とくっついてその表現を行うか、という点にある。例えば、キリスト教と結びつく場合には、彼岸の世界における裁きがその世界観に整合性を与える。社会主義と結びつくのであれば、革命による世界の転覆の可能性へと彼らの憤激が回収される。
 生活水準が全般的に底上げされることで、世界観自体へのエネルギーの供給が絶たれることもありえよう。だが、全般的に底上げできるほどの経済的繁栄はそう頻繁にやってくるものでもない。
 そうすると、この世界観を表現しうる思想が要請される。特権を享受するようにみえる連中を論理整合的に腐すことができて、そして、大いに溜飲を下げさせてくれる思想が。

*1:「内容」よりもその内容が話される(物質的な)「位置」の方が意識されるというのが、正統性が崩れる徴候の一つである。