敵

 私は、反-理論といわれても何に抗しているのかが分からなくなってしまった世代の一員なのだが、私以前の世代には、「ああ、アレに抗するのね」で通じたのだろう。小熊先生の『民主と愛国』もまた、「戦争経験」と言われて、分かる世代と分からない世代の通じ合えなさ、と、その帰結としての言説編成の相違を描いていたことになろう。
 言説の変遷があるとき、必ずやそこに、何らかの対象についての実感の共有の有無の差があるといえる。犯罪加害者の内面を描きつくすところから、犯罪被害者の内面を描くことへと言説の変遷があったと言うならば、そこには、「人間は改良できる」という人間主義的な信念が実感を喪って行く過程も並行しているといえる。もちろん、生活の様式も都市的なものへと変わってきているのだ。
 人間主義的な信念の敵は、非人間的で事務的な官僚制であったろう。金八さんは誰と戦ってきたか。だが、敵は今やそこにいない。人間主義的な信念が実感を失っていくのは、敵が今や非人間的でも事務的でもないこととも関係があろう。むしろ、過剰なまでに人間的で、あなたのマンパワーを最大限に活用しそこから搾り取れるだけ搾り取ることを考えている。そうして、生エネルギーを搾り取られた人々は鬱になるのだ。