ケータイでテトリス再論

 なぜ、ケータイで提供されるテトリスが「よくない」と思えたのか。それは、ゲームの無益さを究極の形で提示してしまっているからのような気がする。
 ああ、そうさ。ゲームなんて幾らやっても一文の得にもなりはしない。突き詰めれば、時間の穴埋めに過ぎないのだが、そこのところに心底気付いてしまっては、とてもゲームなんかに入れ込む気になれはしない。
 何かを見誤ることで、本質的な無意味さに覚醒することを回避できている。そういう構造なのだと思う……ハイデガー的だけれども。
 しかし、どう考えても入力デバイスとして適切なものだとは思えない携帯というハードで提供される百円ゲームは、そのあまりの敷居の低さが、ゲームの本質的な「どうでもよさ」を暴露してしまっている。失うものがなく得るものもない遊戯が、どうでもよいといった投げやりなプレイスタイルを推奨してしまうわけだが、そのプレイスタイルを見ている我々、そして当人もまた、ゲームの無意味さを具体的な形を以て突き付けられる。
 だから、「よくない」と思えて仕方ないのだ。