知への意志

 という本は、遠く学部の頃から今日にいたるまで、私には「なぜか気になるアイツ」という位置を占め続ける稀有な本である。
 この本は、単に逆説を弄しているようにみえて、その実、何か大事なメカニズムを指摘しようとしている……そう思えてならない。
 このことはブルデューの体系性と比較すると割りと見やすくなる。
 ブルデューが、象徴権力という語を用いるとき、そこで考えられているのは、正統性の序列において上にいるものと下にいるものがいて、下にいるものは、好きなことを言えないで「検閲」されるというメカニズムである。ちなみに、ハイデガーのような正統性の最高位にいるものもまた、ライバルたちによって検閲されており、その検閲に従う限りにおいて正統性を認められているのである。
 さて、『知への意志』は検閲という考えを根本的に疑う。彼が対象にしている事態とは、性についての嘘っぱちの言葉どもが信じられないくらいに世の中を席巻するという事態である。嘘っぱちの言葉どもは、科学者から正統性を僭称しつつ伝播していくのだが、その伝播は、既存の権力関係を利用しつつ行われる。
 例えば、二流の科学者の読み物をかろうじて理解する教育者は、それを父兄らに伝える。会社社長は社員に偉そうなことを述べるついでにその嘘っぱち言説を引用する。そして父兄らは子どもに嘘っぱち性科学を叩き込む。ここに更にマスメディアや産業を絡ませてみると、あまりに複雑になるため、この伝播を単線的に理解するのは殆ど不可能になろう。
 フーコーは、ブルデューのようには、真理という正統性が、検閲という手段によって、その知識の流通過程をコントロールできるとは考えなかった。その流通の中で、何がオリジナルで何がコピーなのかすら分からなくなり、最終的には、例えば精神医学のように、「ある犯罪者が犯行当時責任能力を有していたかどうか」を問うという嘘くさい知識さえ真理として打ち立てられてしまいかねないことを見ていたのだ。そして、そういう科学を喜んで引き受けかねない連中が次から次へと現れかねないことも。
 正統性によって言説の流通が厳密にコントロールされる場とは、極めて限定された場である。ごく限られたゲームが存続可能な場である。ブルデューの理論はそんな特殊で稀なゲームの場がいかに成立するのかを問うことを可能にしてくれる。
 しかし、その外側では、正統性を無視した圧倒的な知識流通が存在する。それを理解可能にしてくれるのは、フーコーによれば、その社会の文脈として先行的に存在する、力関係と合理性ということになる。