価値
研究対象の選定の前提には、「何が対象として採り上げるに値するか」という価値観が存する、というのは価値自由についての先行研究で散々指摘されてきたことである。
その価値観はどこから来たのか、と問われれば、研究者個人の恣意ではないはずである。研究である以上それを評価する相手がいる。評価する人々(=専門家)が見ているのは、その分野の先行研究の流れが作り出した問題構成の一覧表である。
それでは、その価値観は、その分野が完全にオリジナルに作り出したかといえば、そうともいえまい。
家族、労働、教育、そして最近では福祉……その対象選定の根底には、その時代の社会が「何が論じられるに値すると見なすか」という、その時代・その社会が有する価値観の序列「も」存する。そして、その上に立って、その分野の研究者が、分野が蓄積してきた問題構成と取り組むことを通じて、その序列にアレンジを加えて、精密化するか、時に、大事さの序列をひっくり返すのであろう。
それでは、「これが論じられるに値するのだ、それだけの価値を有する現象なのだ」ということを、社会の価値観、すなわち「素人」の論理*1から完全に自律して論じるには何が必要となるだろうか。
例えば、「テレビゲームが論じるに値するのだ」と言い得るには、「世の中で問題になっているから」だけでは弱い。もちろんそれもエンジンではあろうが、分野独自の論理によってその正当性を語ることができればなお良い。
「分野独自」というのが難しいのだが、おそらくそれは、「素人」の論理を批判し切る中で、その批判が成立して「ああ、なっとく」される過程で行使されたことになる論理であろう。ただ、これはもう少し明確化できるかもしれない、というか、明確にしなくてはならない。少なくとも、そういう問題意識は持っている必要がある、ということかもしれない。不十分は承知でメモ書きしてみることにする。
第一に、ディシプリン成立の根拠となる世間的には通用しない価値。数学者のやっていることは傍目には数字遊びでしかないのだが、しかし、「傍目にそうとしか見えない」ということが、分野の独自性を価値づけるだろう。これは研究者個人の信念ではなくて、メンバー間のゲームだけが成り立たせている無根拠で恣意的な価値である。
第二に、大本の価値から個別の対象のお値段を「世間知から自律して導き得た」と説得的に言ったことになるオリジナルな方法。これは、方法を洗練させて、自生の論理と切断することによってのみ獲得できる方法であって、システム論だとか言説分析だとかを使ったからといって自動的に獲得できるものではないだろう*2。