読書

 最近は、話の筋とかオチとか、そういうのはどうでもよくなってきた。そんなのは別になくてもいいんじゃないかとすら思う。ただ求めるのは、文章における味わいである。
 今までも、この作家は口に合うとか合わないとか、そういった感触は抱いてきたのだが、本を最後まで読む義務感とか、スジに対する期待とかで、文章の癖に対する要望はできるかぎり抑えてきた。優先順位を下げてきた。
 だが、ブックオフで中古の本を大量に買うようになってから、本に対する態度が変わってきたと感じる。つまらなければ、次を読めばよいのだ。最後のページまで我慢する必要はなくなったのだ。本一冊が持つ作品としての完成度に対する期待が下がったというべきか。その結果、文章の癖に対する要望は優先順位を相対的に上げてきている。

 ここのところはもう少し詰めて議論ができるのかもしれないが今はそういう気力がない。ここまでは、レン・デイトンを紹介するための前フリであった。

 ここには味わいしかない。話は、AがBと出会い、AがCと出会い、AがDと出会い……と延々と続くのだが、なぜこういう続き方をするのか、決定的に説明が欠けているのである。だから、意味の分からないがなんとなく気の利いた会話が延々と続く。そんな中で、Fが唐突にAに銃口を向けたり、Hが死んでいたりするから、たちが悪い。
 東西冷戦下における化かし合いというのは、様々なスタイルで作品にされてきた。フレミングの007シリーズなんかでは、格好良いスパイが大活躍する。リテルなんかはそれをチェス・ゲームに擬している。ル・カレやグリーンは、スパイ的人生について思いをめぐらせた。
 そして、レン・デイトンである。上記の作家たちにおいて、化かし合いというのは、どちらかの側につくプレイヤーという存在を必要とした。英雄であれ、チェス・マスターであれ、悩める二重スパイであれ。だが、デイトンの世界には化かし合いしかない*1。登場する人々は恐るべき無節操さで右と左を行き来するのである。化かし合いは確かに存在しているようであり、様々な衝突はあるのだが、それらを構成すべき存在は誰でもいいし、その動機はなんだっていいのである。

*1:確かに『ベルリンの葬送』では章の冒頭にチェスのルールが効果的に引用される。だが、そのチェスのプレイヤーが誰なのか。これは決して分からない。ここがリテルにおけるチェスとの違いである。