ヘイト

誰か小説にしてくれないかな


 ディストピアを一種類考えた。
 よく考えると、ここ百年ほどディストピアといえば先ずは全体主義社会であった。そろそろ飽きてきた。
 わしの考えたディストピアはこうである。「不愉快」な行いについては厳罰が下されるが、そうでない行いについては、いかにこれまでの道徳に照らして悪い行いであっても量刑が恐ろしく緩和されるというもの。
 例えば、タバコのポイ捨ては終身禁固刑。電車内の携帯電話も同様。シルバーシートの席を譲らない若者は三十年ほどムショに入ってもらうことになる。おしぼりで顔を拭くのは、まあ、罰金刑としておこう。公共の場での猥談にも相応の罰を覚悟してもらうことになる。
 そうすると死刑に値する「不愉快さ」とは何だろう。小遣い銭欲しさの万引きかな。そのほかにも車内ではしゃぐ子ども、駅前に止め続ける自転車、これらも懲役は逃れない。
 逆に、殺人を犯しても、純粋な愉快犯でなければそれほど罰せられることは無いだろう。例えば、家庭内暴力をふるう子どもを殺したりした親については、これは無罪である。家族のゴタゴタはあまり人の「不愉快さ」に訴えるところが無いからだ。あと安楽死の話とか。死にたいと思ってるんならホットケよということで関係者は無罪である。
 この線引きはそれなりの現実味を帯びていると思うが、ここで問わなくてはならないのは、この線引きの道理を明確化することであり(「不愉快」とは何か、誰にとってものか)、そしてまた、この線引きが行使されたとき実現される社会がどのようなものか、ということであろう。