A君との話から

 かつての趣味には、多くの人に、「趣味に生きる」ということを断念させる仕組みが内在していたのではないか。
 当時、趣味の殆どには、他の趣味に対して正統性の度合いで低い価値が割り当てられていた。正統性の度合いの低さの自覚とは、その趣味に生きている人間に対して、「過剰な期待を抱くな。その趣味はあくまで趣味であり、それで生計を立てるなどはもってのほかだ」という自覚を植えつけるものである。例えば、かつて「音楽で生きる」などという夢は、本当に夢物語で終わるべきものであった。バンドの創成期の回顧録などを読むと、他の仕事のあてを確保しつつ、同時にできるところまでしてみようという感覚で活動していた、という話をよく目にする。
 これに対して、今日では、各趣味はその内部に、「趣味を行う」ことと「生計を立てる」こととの間を取り持つような機関を有しているものだ。つまり、「趣味に生きる」ことが可能であることを謳うような機関である。例えば、専門学校がこれに当たるが、これへの入学者数は90年代以降上昇し続けている。
 これは、各趣味が、需要者の裾野を広げていき、産業として成立しつつあるということと関わっている。関連する変化を列挙していく。
 先ず、需要者の変容について。需要者はかつてのように、「上を向いて生きる」ということはなくなった。その趣味が正統性の点では劣ることを重々承知しつつも(このことは片岡栄美による趣味威信スコアの調査から明らかだ)、しかし、そのことを恥じる必要はないと「開き直る」ようになっている。
 これなどは、私は、趣味の世界において、かつてのような「卓越さを競うゲーム」が弱まって、むしろ、「承認を得ようとするゲーム」が優越化してきているためではないか、と考えている。同好の士が集い、己のしていることのつまらなさぶりを重々承知していながら、そのことが好きな者として存在を許されている承認の感覚を味わう。こういうゲームの場では、「承認がなされるか、否か」という二値的な基準が作動しがちであり、かつての「趣味Aは趣味Bよりも上か下か、あるいは趣味Cよりも上か下か」という終わりの無い相対性のゲームは流行らない。たいていの趣味には同好の士がいるものであるから、承認はほぼ常になされるものと見てよいだろう。
 承認の共同体が成立するとき、そこに産業が成立しうる余地がでてくる。今日のアダルトビデオのジャンルの多様さを見るまでもなく、互いが互いを承認する人々がおり、その人々が公共の場で発言する機会が与えられている以上、彼らが自らを一つの有力な勢力として表象し、自らに商品を与えるよう声高に迫ることが起きうる。
 産業として成立するということは、幾つかの関連する職業とポストとが生じるということである。そして、職業がある以上は、そうした職業に入ることを斡旋し、専門的な作業を教えようとする学校が生まれる余地がある。それが専門学校である。
 そしてここに、新興の産業で働き始めた職業人と、その職業に入ることを売り文句としている学校との結託が生じる。働くもののプロフェッショナルなあり方を声高に謳い、そのイメージを憧れるに足るものとして打ち立てるのである。そして、この点が重要なのであるが、その憧れはすぐに手が届きそうなのである。
 今手元にファミ通がある。八ページにわたり広告が組まれており、記事とは見分けがつかないほどである。頭のページにはこうある。「チャンス到来! ゲーム業界緊急指令! 次世代ゲーム機対応 ゲームクリエイターを目指せ!」。その中の記事の殆どに、就職率、提携企業、就職先の企業一覧、手に入る資格の一覧が、具体的に書き込まれている。
 間違ってはならないが、彼らは「夢」を売っているのではない。もっと実現可能な「チャンス」を売っているのである。したがって、この広告で注意するべきは、「ゲームクリエイター」などといういかがわしい横文字であるよりは遥かに、具体的な数値とデータなのである。これらが、「趣味に生きる」ことがいつでも可能であるかのように、承認の共同体に生き、その承認のために時間と金のすべてを捧げてきた人々を引き付け、特定の労働場でしか通用することのない一枚きりのカードを渡すのである。
 そしてその結果として、首尾よくその手の職業に就いた人々には常に、A君の言う「職業の先の無さ」についての諦念と開き直りの感情がつきまとうというが、この諦念などは、趣味に対してずっと投資してきたが、その投資が無駄に終わるかもしれない、されど、その趣味をとってしまったら自分には何も残らない、という先行きの無さの見通しと繋がるものである。システム・エンジニアの世界にも諦念はあふれていた。
 この諦念の特徴は、趣味に生きてきたために、「学歴」などの他のカードを持っていない人々において顕著に見られるという点にある。SEの世界で言えば、親会社ではなく、子会社の下請けの下請けにいた契約社員たち。今日の労働と趣味をめぐる問題は、こういう特定の層において顕在化するのだが、それは、上に述べた「趣味に生きる」というメカニズムにおいて主体的になされる選択を媒介としているだけに、なかなか問題化には至らないのである。