フーコーとの距離感

 上の世代の人々のフーコーへの期待というか、そういうものの過剰さをずっと感じてきたのだが、それは、社会学ディシプリンの確かさが時間を追って弱まっていく過程のどの段階でフーコーと接したのかに大きく関係していることに気付いた。
 一言で言えば、わしは、フーコーから社会学のルールらしきを学ぶという、一昔前ではありえない関係の持ち方をしていたのだった。上の世代の人々は、オーソドックスな学習体系に対する、有力で無視できないアンチとしてフーコーを見てきたし、この点が重要だが、そういうフーコーで無いとしたら、わざわざ採り上げて読む価値なんてないのだ。だから敢えて彼らは、可能性を極大化して読んでみるのであって、とりわけ、フーコー社会学的に「弱毒化」(凄い言葉だと思う)されるのを恐れるのだろう。
 そして、わしはフーコー社会学に対する「毒」として対象化できるほどに、社会学の正統性を内面化できていなかったので、「薬」として読むやり方しかできなかった。でもその読み方は、先輩方からすれば退屈なものだったかもしれない、と最近はとみに思う。で、酒に逃げる。
 「毒」と読もうとするS先生やE先生がいて、「薬」とするわしがいて、その中間にA先生がいるのだとしたら、これは、ちょうど世代の配列になっていることが分かる。社会学ディシプリンを失っていく過程でもある。