いじめ

 女王の教室野ブタ。をプロデュース。後者は少ししか見ていないが。
 いじめというのはどうしたって避けられないし、それをコントロールできる金八先生もいない。いじめは所与としてある。それは、人間が作り出したものであるにもかかわらず、一種の災厄としてある。もはや人間が作りだしたという事実はそれを改善できる見込みとはまっすぐつながりはしない。
 犯罪被害者にスポットが当たる時代というのは、人間の絡み合いの帰結として生み出された悪が、単なる災厄として対象化されるのと同時並行的であるとはS氏の修論の結論だったけれども、逆に言えば、我々はそれ以前には、人間の絡み合いの帰結であるものは人間的に改善できるという希望を抱いていたことになろう。それが金八先生の時代だったのかもしれない。
 いじめが災厄である以上いじめは終わりはしないが、個人化の時代、被害者は数少ない理解者を当てにすることができる。客観的に襲いくる災厄の中での小さな共感。内面でのふれあい。冒頭の二作品は、この点に、現代における救済の可能性を求めているようだ。