正統なき時代の不幸

 最近周囲でパーソンズについて囁かれることが多くなった。
 R君がパーソンズにまるまる一章を割いているのを読んだ次の日に、N氏のレジュメが秩序問題を論じているといった具合である。K君の修論でも真面目に採り上げられていたかと思う。
 パーソンズの時代というのは、全力でそれを肯定するにしろ、全力でそれを否定するにしろ、いずれにせよ、そのどちらの所作もが「形」になっていたと思う。今から考えると初期ソシオロゴスの論文には首を捻りたくなるものも多々あるのだが、と同時に、そういうケレンが曲がりなりにも「形」になっていたのは、強大な敵が暗黙の裡に想定されていて、それが実感を持ち得ていた時代だったからであろうと思う*1
 要するに、誰か実力のある人が一人でもいればよいのである。その一人が命を削って強大な体系を築き上げてくれさえすれば、好き勝手やっている人の論考さえアンチの「形」をとることができる。

*1:H先生がT大先生のことを「北極星のようだ」と評していたのが思い出される……