物と眼について

 眼と物との関係が先に置かれたからそこに人間がやってくることができたのであって、人間が眼を以って物を見出したのではない。そこで、物を対象化として、眼を主体化として、それぞれを、分離された別の組織過程として記述することになる。
 ここで対象化というのは、たとえば、犯罪者の違法行為であるとか、精神障害者の奇異な振る舞いとかが、家庭や公共の場から、何かしら特殊なものとして浮上してくる過程のことであるが、要するに何かが「対象」として「眼」をつけられる、あるいはmarkされることであるといえる。
 このmarkされた対象が、爾後、指示・分析・評価・処置……等の一連の実践の対象として、繰り返し、多様な関係の中に置かれることになる。これらの関係は次第に複雑なものとなって、終いには独自の規範を備えた科学を(局地的に)構成しさえするのだが、フーコーの関心はそこにはなく、その以前の段階にある。
 最初の話に戻すと、眼と物との関係の代わりに、彼は、対象化と主体化とを置いたと述べたが、それらの根底にはmarkする一つの実践が置かれたのだと思う。その一つのmarkこそが様々な関係を結び続けた挙句に対象と主体とを作り出していくのである。