考古学についての誤解

 考古学の方法について、自分も含めて、様々な誤解をしてきたと思う。この連休は、この点を中心に思うことを書こうと思う。

知の考古学(新装版)

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 考古学についての最も根強い誤解は、そこでは「言説的実践と非言説的実践との関係がいかなるものであるか」が、a)明確化されていないか、もしくは、b)誤っているという理解である。ここで誤っているというのは、非言説的実践に対する言説的実践の自律性を誤って主張しているというものである。
 私の見た限りでは、その手のもので、社会学界隈で最も古いのは、Kennedy(1979)*1にまで遡れるが、社会学界隈に限らずとも、ドレイファス-ラビノウの『ミシェル・フーコー』などこうした理解に強い影響力を持った研究書も無視できない。誤解は近年まで続き、社会学に限れば、最近では、Fox(1998)*2による批判的な論文が目に付く。
 無論、日本の社会学もこうした理解の流れとは無縁ではないのだが、ここではそこへ、社会構築主義の潮流と、内田隆三の「外の思考」論とが交じり合って、かなり独特な理解を形作りつつある。これらは、高度な議論を重ねてきたと思うが、近年に至って、論点が、フーコー考古学のプログラムについての検討から離れてきたような気もするので、もはや、この文脈で取り上げるのは適切ではないだろう。
 さて、以上が先行研究についての極めて簡単な概括であるが、これらの主張に対するブログ主の意見は、この「言説的実践と非言説的実践との関係がいかなるものであるか」という問い、これを立ててしまうこと自体が、フーコー考古学についての致命的な誤解、というものである。
 なぜ、誤解なのか。それは、明日以降おいおい論じていく予定でいるが、その批判の基本ラインだけ先に述べておくと、以下のようなものとなるだろう。
 言説的実践一般と非言説的実践一般との一般的な関係というものは存在せず、それらの関係は、問題となっている言説に応じて個別的な形式をとる。そして、考古学のプログラムの大半は、この個別的な形式を見出すためにこそ、様々な分析レベルを事細かに設けていくことを狙いとしていたはずではなかったか、というものである。

*1:Kennedy, D., 1979, "Michel Foucault: The Archeology of Knowledge," Theory and Society, 8: 269-90.

*2:Fox, Nick J., 1998, "Foucault, Foucaultdians and Sociology," Brisish Journal of Sociology, 49(3): 415-33.