禁じ手


 a) 蒙昧のさなかで、曇りなき眼差しによって、とうとう真性の対象を見つけた。
 b) ある科学の規範が確立したおかげで、ついに、その科学に特有の対象を認識することができた。


 (a)の素朴実証主義に対する批判にはすでに、科学論、知識社会学マルクス主義イデオロギー批判を含む)、生活世界論がある。
 (b)はカンギレムらを通してフーコーがよく馴染んでいた科学論の考え方だが、フーコーは、科学の規範とは、せいぜい、人々の経験を洗練させたものに過ぎぬのではないか、と考えていた。
 残るのは、知識社会学と生活世界論である。
 知識社会学は、科学的主体を社会構造に規定された存在として把握し、生活世界論は、科学的主体を生活世界の構造に由来するものとみる。いずれも、科学的主体の代わりに、主体の外部の何かが、対象を認識する仕方を規定すると考える。
 これらの議論はいずれも、科学的主体が認識活動中に従っている規約を明らかにしてきた。科学論は、科学が課す規約を、知識社会学は、科学者の出自が課す規約を、最後に、生活世界論は、生活世界の課す(忘却されがちな)規約を。科学的主体は、こうして、科学的営みに属し、社会階層に属し、生活世界に属する者として、規則正しい認識活動を行うと考えられる。ちなみに、これらの要素はブルデューの社会理論が網羅するところでもある。その場合には、科学を界とし、社会階層を階級とし、生活世界をハビトゥスとすればよい。
 ここで問われるべきなのは、これらの要素の結ぶ関係である。ブルデューであれば、界の外側で培われたハビトゥスと界での位置づけが課す規約とはどういう関係にあるのか、この点はついに究明されることがなかった。