ナンシー関の朝

 二次分析のフルペーパー期限が迫っているのは承知していて、だからこそ、ずっと考え続けているのだけれども、息抜きにナンシー関を手に取ったのが間違いだった。読んでいるうちに朝を迎えた。
 それにしてもナンシー関は、教祖と信者という関係というか構造に敏感だったのだなあ、と思う。ナンシー自身はそうした宗教的な関係を外から、興味半分、批判半分で視ていたというのが実態なのではないかと思う。
 そういえば、ナンシー関のルポに「信仰の現場」というのがあって、そこでは、矢沢永吉のコンサートや正月の寅さん映画の封切りを見に行っているのだが、やはり矢沢や寅さんを無批判に信じ続ける庶民をじっと見ているのである。
 テレビというのは人気だけが唯一の価値であるがゆえに、宗教的な関係が成立しやすい。「なんでこんなのが人気有るんだよ」と問うてから、ナンシーは人気が維持されるテクニックをいろいろと探る。あるいは、人気が去った後に都落ちしていく教祖=芸能人たちの悲しみを冷たくつづる。そして、都落ちしていくべき者が(テレビ的な事情によって)なお居座る時には徹底的な筆誅を加える。
 彼女を宗教社会学者と呼んだとしても、そんなに的外れだとは思えない。