『知の考古学』

 たまに研究の話も書いておかないと、「毎日遊んでいるのではないか」と疑われそうなので。


 ここのところの再読で改めて確信したのは、社会学的にフーコーを読む場合、立てられた問いの鋭さと深さという点で『知の考古学』(1969)が突き抜けているという点である。
 この本は最初に、歴史学的研究における認識論的転回を縷縷と綴っているのだが、ここで、歴史自体と歴史を構成する研究者とが分離されて、後者が槍玉に挙げられるわけだ。
 そしてこうした分離の後にこそ、はじめて、「じゃあ、歴史を構成するための妥当な手順とは何なのか」と問うことが可能になるし、歴史学的研究における「単位とは何か」、逆に単位にとっての「まとまりとは何か」、更には、「単位が可能なのはなぜか」、「まとまりが可能なのはなぜか」という、社会学者にとってもおなじみの問いを立てることができる。


 こうして社会学的な問題構成にやや引き付けて読解してから、それに対して、フーコーが、対象化と主体化*1と概念化と理論化という、単位やまとまりを構成するものとして4つの指標を挙げていることが注目される。なぜこの4つなのか。行為とかコミュニケーションとかじゃなくて、この4つの要素の一連のつながりの中に単位とまとまりとを構成する契機が見出される、そのことの意味が考えられなくてはならなくなるのである。


 またその後の著作をずっと読んでみても、潜在的になっているとはいえ、この4水準は放棄されていないことも分かる。


 ただし、欠陥も多々ある本であることは事実。でも欠陥って悪いことじゃない。例えば、哲学的な問いを社会科学のモデルが解決する義務はないのだ。むしろ、あえて単純な構成を持ってきてそういう問いの負荷から逃れることで、経験的事象への適用能力を高めることも有効な戦略だといえよう。フーコー方法論の適度な「ルーズさ」や「いい加減さ」は、これまで批判の対象としてきたが、立てられる問いによっては推奨されるべきものであるかもしれない。このいい加減さこそが、フーコーほど頭のよろしくない我々にフーコーのように分析することを許しているのだから。

*1:この主体化の記述に見逃せない揺らぎがある点も分析を要する点である