素材そのまま

 前回の辛気臭いエントリがずっとトップにきていたので、わたし自身、アクセスする気にならなくなっていたのだが、久しぶりに何か書こう。


 フーコーは、いくつか、『ピエール・リヴィエールの犯罪』『汚辱にまみれた生』等に代表される史料集のようなものを出版している。それらはせいぜい簡単な解説を付される程度で生(き)のままの史料として出版されている。
 生のままなのだけれども、読んでみると、何かの分析のように見えてくる。ここが面白いところである。ついでに言えば、パノプティコンや工場の設計図なんかも、殆ど生のままなのだが、ああしてみるように指示されると、何かが分かったような気がしてくる。これはなぜなのか。
 簡単に言えば、それは、彼が、特定の実践を理解して矯正しようとする実践を行う人々の立場から、何をなすべきかを追体験しようとするからである。実践についての実践をする人の立場から実践を見ているからである。そして読者に対してもそうするように指示するからである。
 実践についての実践をする人は、対象となる実践を理解しなくてはならない、理解するためには物理的に捕まえなくてはならない、その上で、適切な問題を組み立て、なすべき実践の内容を決定しなくてはならない、先行して結果を出している実践についての実践(テクノロジ)を適度なアレンジの元に再利用しなくてはならない……、こうした諸々の計算をしなくてはならない人の立場に彼は読者とともに立つ。
 そして、極論すれば、フーコーは、それ以上のことをしていないようにさえ見えるのである。この実践についての実践は、当初は不適切にも「権力」と呼ばれていたが、その後に「統治」という適切な概念化を受けることになる。