つづき

 なんというか、こんな感じで、補足、補足、補足、「いつの間にか論文になっていました」的な奇跡を期待しつつ。


 知ることの根底には、人類の知性の進歩があるわけじゃない、というのはフーコーの考えていたこととして比較的ひろく認知されていると思うが、それとは反対に、生活世界における発見が根底にあるという考え方とも少しだけズレていた、という点はあまり知られていない。
 実際には、かなり近いところにいるのであるが、一つだけ決定的に異なる点がある。
 フーコーにあっては、何かを知るためには、その何かは物理的に捕まえられていなくてはならない、という信念があった。いわば、「根源的な獲得」ともいうべきその活動は、生活世界における諸実践での発見とはいささか異なるものと考えられている。
 例えば、幾何学の起源は古代の整地術から生み出されたといわれている。この例では、整地術という生活世界での実践から科学的認識が発生したと言ってもよいかもしれない。
 しかしフーコーの挙げる例は、心理学の起源が狂人の囲い込みから生まれたとか、精神医学の起源が犯罪者の監獄への収容から始まったといった例ばかりである。どれもこれも生活世界で自明視されていたものを物理的に包囲するところから議論が起こされる。しかも、その包囲が決して科学的な目的から行われたわけではない、という点も重要である。
 まとめると、生活世界における感受性の変化が起源ではないし、科学的知性による発見が起源でもない、そういう科学が問題とされているのである。(厳密に言えば、感受性の変化も関わっているのだが、その変化はこの根源的獲得に対して二次的な関わりを有するに過ぎないと考えられている)
 それでは、このような包囲する実践、これは一体何なのか。
 このような特殊な実践、つまり、特定の実践のみを問題視しそれを変えようとする実践、これこそが、フーコーの言説論、権力論の第一の分析対象なのである。
 これは、時には、看守らによる矯正的な実践であり、時には、医者による治療的な実践である。大きくは、施政者による人口政策の形態をとることもある。これら相異なる様々な実践には、唯一つ、実践に対する実践という形式を持つという共通の性質がある。