『知の考古学』の意義

 更に細かい話へと入ってしまう前に、メモ。

知の考古学(新装版)

知の考古学(新装版)

 この本に関しては、言説的実践と非言説的実践の関係について決着がつけられることが期待され、そしてその観点からのみ評価が与えられてきた。H.ドレイファスとD.ラビノウ(1983)*1がその観点からの決定的な解釈を与えてきたが、社会学界隈でもその解釈を覆す議論が出てきたわけではなかったのは先に見たとおりである。
 しかし、後年の分析との関係を見たときに、本質的に重要であったのは、そんな問いではなかったのではないか。仮に、考古学が系譜学を可能にしたのだとしたら、それは、言説的実践と非言説的実践との関係を問うことによってではなかったはずである。
 そう考えてみると、ブログ主には、そういった関係を問うために準備された、a)複数のレベルの設置という事実、b)そのレベルの総体が「知」という独特な領域に設けられた事実、この二つの事実こそ、後年の分析を準備し、フーコーフーコーたらしめた本質であると思えてならなかった。


 a) 複数のレベルの設置。とりわけ、言説自体を、対象構築のレベル、言表様態のレベル、概念のレベル、理論のレベルに分割したことは、その後のフーコーの分析がどこに注目するかを決定的に規定した。この点はすでにG. Gutting(1989)*2が少しだけ指摘していたことであるので、それほど新味ある指摘ではない。
 しかし、以上の指摘に加えて重要なのは、後年の権力分析において、これらの分析軸は、分析者が分析上の必要から設定するに止まるものではなく、実践についての実践としての「権力」が設定するものとして、決定的にその位置づけを変更された点である。もう少し付け加えると、権力分析が明らかにする理解可能性は、実は、実践についての実践がその実践の遂行上知る必要のあった項目を追理解することによってのみ可能となるものなのである。


 b) 知の領域の設定。以上の点に加えて、意義深いのは、これらすべての分析が行われるべき領域を決定的に定義した点である。このことを明確にするためには、『知の考古学』に加えて、Dits et écrits の幾つかの論文*3を参照する必要がある。
 建て増し建築としての「知」とは、経済的社会的諸条件と科学的言説との中間に設けられた*4。この知が、経済的社会的条件を単純に反映するものではないこと、このことはすでに広く知られている。しかし、反対に、この知の領域が、科学的言説が有する自律性とも異なるものであることはあまり深くは追求されてこなかった。それは、同書の解釈が、「言説的実践と非言説的実践との関係は如何」という問いに決定的にとらわれてきたためであったと思う。科学的言説の自律性と知の自律性とが混同されてきたのだ。
 しかし、この両者の区別は、実は極めて重要である。フーコーが定位したのは、経済的社会的条件の下での様々な実践が少しずつまとまりをなして、対象、主体位置、概念において共通の議論の土台*5が生まれていく過程が進行する領域であり、彼はそれを、科学の言説の自律性*6の手前で把握されるべき領域として規定した。
 そして、この領域に研究を集中し、対象が生まれ、対象を生む主体が形成され、科学以前の諸概念が考案されるのに関わる諸実践の総体を徹底的に記述するというプログラムが確定していたからこそ、監獄制度やセクシャリティに対する独特なアプローチが可能となったのである。


 以上の理由から、単に失敗した構造主義的試みの白鳥の歌として『知の考古学』を解釈する先行研究の理解は十分ではないと考えるのである。以後は、上記のうち、対象構築と言表様態の分析に注目したい。

*1:Dreyfus, H. and P. Rabinow, 1983, Michel Foucault: Beyond Structuralism and Hermeneutics,2nd ed., Chicago: Chicago UP.(=1996,山形頼洋・鷲田清一他訳『ミシェル・フーコー——構造主義と解釈学を超えて』筑摩書房.)

*2:Gutting, G., 1989, Michel Foucault's Archaeology of Scientific Reason, New York: Cambridge University Press.(=1992,成定薫・大谷隆昶・金森修訳『理性の考古学−−フーコーと科学思想史』 産業図書.)

*3:とりわけ「認識論サークルへの回答」の後半

*4:Foucault, M., 1971, "Entretien avec Michel Foucault ," in: D. Defert & F. Ewald eds., 1994, Dits et écrits 1954-1988 par Michel Foucault, tome2, Paris: Gallimard, 157-74.(=1999,慎改康之訳「ミシェル・フーコーとの対談」蓮實重彦渡辺守章監訳『ミシェル・フーコー思考集成 4 1971-73』筑摩書房,39-61.)

*5:これが、かの「実定性」のことである。

*6:科学史の対象である。