先ずは、主体

pqrs2008-05-10


 フーコーの主張のなかのポストモダン的側面についての強調というのも問題の多い解釈であると思う。これはフーコーの方に問題がある。やはり、『言葉と物』というのは、そして、その最終章におけるいささか耽美的な人間の死についての宣告というのは、それだけ強烈なインパクトを持ってしまっていたということなのだと思う。
 個人的には、これを書いていたときのフーコー先生は調子に乗ってしまっていたのだと思うが、「人間誰しも」、あれだけのものを書いた直後の最終章では、多少の見得を切るものではないかと思う。
 だから、こういうイメージに支配されたフーコー解釈というものを誤読だとまで言うのは気が引ける。
 ところが、人間の死を意識しすぎると、フーコー考古学/系譜学プログラムにおける大事な側面を見失うことになる。それは、彼が、「対象」と「主体」という「形式」を最後まで分析の準拠点として維持し続けたという点である。
 晩期フーコーについての典型的な印象として、「なぜ急に主体の話をし始めるか、それは過去に否定していたものではないのか」というものがある*1。しかし、この指摘は、フーコーが、主体の近代的「内容」を構築されたものとして描くと同時に、主体という「形式」については、分析上の必要から維持したという事実に気づいていない。
 そのことが明確にされているのが『知の考古学』である。2章の言説の分析において、彼は、言表の形式の分析において必要となるデータを以下のように提示している。

  1. 言表を語る諸主体に課せられる諸規約 例えば、医者に排他的に認められた社会的役割によって課される言表の特定の形式
  2. 言表の語られる制度的に様々な場所 例えば、病院、研究所、図書館の間での役割の分担とその分担によって課される言表の特定の形式
  3. 言表を語る者が占めうる様々な主体の位置 例えば、観察する主体、問診する主体、教育する主体などの様々な実践上の位置によって課される言表の特定の形式

 ここで述べられているのは、言表がとる多様な形式というのは、これらすべてのデータを収集した上で、それらの間での関係の結ばれ方を分析しなくては説明できないということである。逆に言えば、これらのデータのどれかひとつだけを取り上げて「言表の形式を説明した」と称するのは、言説的実践と非言説的実践との関係をあまりに単純な因果関係として考えてしまっているということである。
 さて、ここで注意したいのは、上記のそれぞれで注目されているのが、言表の主体である、ということである。但し、この主体は、a)どんな社会的役割を果たし、b)どんなところで物を話し、c)ちょうど今何をしているか、によって相異なるような、内容的には(主体としてのあるべき統一性を欠いたという意味で)空虚な、形式的でしかないような主体である。
 こうした主体の有り方の多様性は、いつの日か、科学的な認識活動における「対象」と「主体」のペアのうちの一方の端の有り方を規定するところまで、その可能性を縮減されることになるが*2、それを、科学的実践が有するとされる規範によってなされる縮減として分析するならば、それは、科学史のとるパースペクティブとなる。しかし、言表の働きによってなされる縮減として分析するならば、それは、考古学のとるパースペクティブということになるだろう*3

*1:例えば、Bernstein,R., 1989, The New Constellation: The Ethical-Polotical Horizons of Modernity/Postmodernity, Cambridge: Polity Press.(=1991,谷徹・谷優訳『手すりなき思考――現代思想の倫理-政治的地平』産業図書.)

*2:英訳版『知の考古学』の訳注において、connaissanceとsavoirの相違について、savoirはconnaissanceにおける対象と主体の特定の関係を提供する、と説明されている点にも注意。この訳注は、ほぼ間違いなく、フーコーの指示に基づくものであろう。

*3:確かに、言表が何かをなすというのは、よく分からない言い方ではある。しかし、言表することが成功したときには、必ずや、その言表の主体が、a)適切な社会的役割を果たしつつ、b)適切な場所において、c)適切な実践を果たしていると考えるのだとしたら、言表こそが上記のデータの間での特定の関係を結び、それを再生産するという言い方は、賛同こそしないにしても、理解することはできる。