理解

 あれが秋葉原だったからだろうか。最近のブログなどは、殆どワイドショーと変わらない展開になっている。とはいえ、そろそろ、メタの視点が出てきて議論が有意義になる頃ではないかと思う。
 メタの視点が出てくるところなどがブログ界の、マスコミ界との相違点であると思う。そこには、ちょっとばかり人の上に立とうという小賢しい計算があるのも確かだけれども、その結果として、意義ある議論が出てくるのならば大いに結構なことだ。その上、ブログにはその程度の報酬しかないのだ。


 ところで、こうした事件において、真っ先に我々が試そうとするのは、それを理解することであろう。理解するとは複雑な作業である。先ず、それのライフコースを再構成するべく、過去の人脈が掘りつくされる。それから、それの趣味・嗜好に属するコンテンツが漁られる。ちょっとした奇行、ちょっとした妄言、ちょっとした嗜好、そうした出来事がかき集められる。そして、心理学者でも社会学者でもなんでもよろしいが、そうして集められたデータから「それ」を立ち上げることを厭わない連中も腐るほどいる。公式見解がでれば、我々はようやく一息つける。
 フーコーの見立てでは、こうしたことの根底には、社会の側での恐れがある。理解するとは、征服すること、そのものだ。これが根底にあって、心理学と社会学とが後からやってきて学問のフリをしているのである。


 フーコーの分析した時代との相違は、この過程が、今度は被害者にまで及んでいることである。とはいえ、被害者の人生もまた再構成されるけれども、そこに心理学者や社会学者がお呼ばれされるわけではない。医者が出てくることが多いようだ。
 これは、理解は理解だが、征服のための理解とは異なって、共感といった方がよいのかもしれない。感情をリンクさせること、感情を同じ方向へ動作させること、とも言える。スポーツ選手やチャリティ・マラソンをする芸能人に「感動をありがとう」と叫ぶ我々もそうだが、我らの社会は感情を持て余しているのだろうか。共感とは、持て余した感情の運用法の一つなのだろうか。あるいは、運用されるべき感情にきっちり照準を合わされたといった方が正確なのかもしれないが。


 あるいは、こう考えるべきなのか。ああいう出来事が世間的なコミュニケーションに持ち込まれるときのパターンには二つがある、と。一つは、あちらの側からその社会的インパクトを出来る限りコミュニケーション内へともたらすこと、もう一つは、こちらの側からその感情的インパクトを出来る限りコミュニケーション内へともたらすこと。そのために必要な情報と分析とが提供されているに過ぎないのだろうか。関係者はみんな、単にコクのある出汁をとろうとしているだけなのだろうか。
 少なくとも、世間という水準で考えた場合には、こういうことしか思いつかない。無論、司法や医学は異なる水準でものを考えるのだろうが。