追記

 世間という曖昧な言い方で示したかったのは、いかなる専門システムにも属さない我らの世論のことだと思う。
 世論の声にどっぷり浸かるにしろ、それをメタに分析するにしろ、それが世間を対象としている限りで、狭い分析可能性の中でもがいているように映る。思想なるものがここから生まれることはあるのかといえば、私には疑わしく思える。毎年のファッションショーのように幾つかのスタイルは生まれるかもしれない。だが、根底的には、幾つかのパターンに分類できるものにしかならないように思われる。
 言説分析と文化研究、私が一度は手を染めた手法なので無論自戒を込めて言うのだが、それが、決定的な解答によって否定されることがないことを分かっている者同士の馴れ合いの世界ではない、と胸を張って言えるのかどうか。
 結局、驚くべき思想を最初に導入するのは、司法だったり、官僚だったり、産業だったり、科学だったりするのではないか。それも大概は、後から振り返って、あれが転回点だったと言える程度にひっそりと忍び込む思想としてである。フーコーの研究が文化研究と等価になることの危険はこの点にあるのだろう。