よしなしごと

 1)
 研究者人生を芸歴として表現すると、私の場合、10年目(学部3年目より計算)になる。正確には9年と半年ということになるのか。ここをみると、芸歴9年と言うと、キングコング南海キャンディーズの山ちゃんと一緒で、10年と言うと、麒麟とか森三中とかと一緒になることになる。まあ、若手ということになろうか。基本的には、深夜番組によく出ている人たちといった位置づけになるか。ソシオロゴスなんかは事務所開催の若手ライブみたいなもので、学会賞はM-1になるのだろうか。
 
 2)
 最近の読書は、北方謙三水滸伝か、ロス・マクドナルドの再読が多い。水滸伝は、面白エピソードがテンコ盛りで、読み辞めるきっかけもないまま読んでいるといった調子だが、ロス・マクドナルドなんかは、人から話を聞いて回っているだけのお話なのになんとなく読めてしまうから驚く。ローレンス・ブロックやロス・トーマスなんかも、大したスジもないくせにヌルっと読ませてしまうところがある。あれは何なのだろうか。


 3)
 最近、気に入った言い回し。ギデンズ『社会理論の現代像』邦訳85-6頁より。

 批判的社会科学のメタ理論をつくりだそうというハーバマスの試みについて、筆者はこれからいくつかの所見を提示しようと思うが、そのさい筆者が考慮に入れるハーバマスの着想は、ほぼいままで述べてきたものにかぎられる。これはいいかえれば、ブルジョワ社会の正統的秩序の発展や、その秩序が現在直面している危機についてのハーバマスのさまざまな議論は、考察の対象とはしないということである。しかしこれを、そのような秩序に関する分析は、ハーバマスのメタ理論とは関係がないということだと考えてはならない。反対に、そのような分析とメタ理論とは、ともにハーバマス流の批判理論にとって不可欠なものとして、相互に密接にむすびついていることは明白である。さらに筆者は、ハーバマスの著作に刺激されて書かれた、いまや無視できないものになっている、その多くがドイツ語で書かれている批判的文献に詳細にわたって言及すべく努めようと思わない。ともかくハーバマスの研究における論述は、つねに望ましいほどに明確であるわけではない。そこで筆者は、筆者の定式化したハーバマスの主要な関心が、筆者以外の評者の確認したものとおなじかどうかということに関係なく、この筆者の定式化が的確であるばあいに、そうしたハーバマスの関心によって生じると思われる一連の難点にしぼって、コメントをおこなうことにする。

 大御所にだけ許される尊大さですなあ。