社会決定論

 という批判をきくことがある。何となく効果的な言葉だ。だが、社会学的には、以下の理由から、(批判の効果をもつような言葉としては)消滅させるべき言葉だと思う。
 社会決定論とは何か。社会決定論というのは、社会的なメカニズムによって何ごとかのあり方が決定されるということを意味する。
 しかし、これは、社会学と言う知の根幹となるべき仮説ではなかろうか。何事かが社会に決定されないということは、何事かがそうなっている事態の一部でも、社会学にとって「理解が出来ない」ということを意味する。これは、自ら理解可能性を放棄しているのではないだろうか。
 ブルデューを批判しつつバトラーは、行為遂行性の奇跡を語る。「『自由』といった言葉は、それがこれまでけっして意味しなかったものを意味するようになるかもしれないし……」(『触発する言葉』)。「しれない」というのは否定しない。しかし、「しれない」ものも、それは社会学的に理解可能なハズである。その立場に立つブルデューを批判しつつバトラーが期待しているのは、精神分析の無意識の蠢きか純粋なる奇跡なのではないかと思う。
 バトラーはこの一節で、二つの議論を半ば意図的に混同しているのである。第一には、「すべての出来事は社会学的なメカニズムによって生起するがゆえに理解可能である」とする議論である。第二には、「事前には予想し得なかったようなことが起き得る」とする議論である。言うまでも無く、第二を肯定したからといって、第一の議論を否定したことにはならない。事前には予想し得なかったことが起きたからといって、それは、事後的にいかなるメカニズムによって生起した出来事であるか分析することが困難だということにはならないだろう。